9号車乗り場

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旅行記やら日記やら

「大学生」

 「22時ごろの大学の校舎に入ったわけなんですね。『大学生』がこの時間もサークル活動で元気な声を出して楽しそうにしているんですよ、私は悲しくなりましたね」―私のツイートより引用、一部改変。

 

 一般に日本の大学は出るは易しなんて批評される。要するに遊んでても4年間経てば勝手に卒業できるようにある程度はできているから、私も成績が平均を保つ程度に遊んだつもりである。ではなぜ冒頭の様なツイートをしたのか。私が思い描いていた大学生活を送ることが出来なかったからに他ならない。

 一般に“大学生”というとなにを思い浮かべるだろうか。飲み会?サークル?オール?……なんにせよ、「大学生といえば勉強だろう」という人は中々いないはずだ。俺は将来博士号を取る!などと崇高な理念を掲げてなんていなかった高校生の私は、そんなイメージを持って大学生になった。今となっても恥ずかしいが、いわゆる大学デビューの真似事をしたこともある。このブログの他の記事を読んで下さった方ならわかると思うが、私はオタクだ。アニメも漫画も読まないような人間がそう自称するのは若干の抵抗がないでもないものの、まあ根がオタクなのだからしょうがない。

 冒頭でわざわざ「大学生」と括弧付けで表記したのは彼らが世間一般に言われる大学生だったからである。発表会やら活動やらにむけて合唱の練習をしたり時には羽目を外して、などする“陽”の人間だ。そんな場面にたまたま居合わせた私は多少酒が入っていたこともあり、残り4か月もない大学生活に懐古と後悔の念を向けた。一緒に旅行に行くような友人はいる。サークル活動にも参加した。飲み会やらも隔週程度には行く。こう書くと、なんだ「大学生」じゃないかと錯覚するがそれは誤りである。何が違うのだとなると、さっきも言ったが私がオタクだからだ。オタクは弱い。社会的立場、社交性、イメージ……本質的にすべてが劣る。本人が如何に努力して挽回せんとしても、オタクというレッテルが張られた以上それを覆すことはできない。スクールカーストと同じと考えてもいいだろう。そして私がいう「大学生」は、そんな人間にはほとんどたどり着けないからである。あなたがオタクなら、このことを少しはわかってくれるはずだろう。まれに例外的に「オタクの大学生」がいる。オタクであって「大学生」である彼らと自分は何が違うのだろう。私の結論は、“「大学生」らしいことに真剣に取り組んだかどうか”である。つまり、世間一般から評価される対象になって日の下に照らされるようになったオタクが「オタクの大学生」になり得る。

 私にも未だに、その差を埋めてみようと思うことがある。染髪だの、“映え”るイベントの写真投稿だのはその表れだ。そんな足掻きを鼻で笑うかのように、私の本質は現実に引き戻してくる。私のやっていることは外面をどうにか取り繕うとしただけのメッキにすらならないオブラートだから当然だ。そうこうしているうちに、あと3か月もしたら、足掻きすらできなくなる。そんな現実が、私に最後の悪足搔きをせよと急かしてくる。

 

 

空しい。

面倒な、食事という作業の話

 本記事は私が実家暮らし男子大学生という前提を踏まえて読んでいただきたい。

 

 食事がめんどくさい。こう感じるようになったのはいつからか覚えていないが、私からすると①やっていた作業を切り上げ②食卓に着き③30分ほど椅子に座って作業をする、なんとも面倒な工程でしかないのだ。「1日1食でもなんとかなる」というとよく「羨ましい」「太らなくていいね」と返ってくる。そうではない。私からすると食事を3度毎日続けられる精神のほうが羨ましい。

 言っておくが私は食が細いわけではない。食べようと思えばつけ麺400gに茶碗一杯の米を食べるくらいのことはできる。しかし普段の食生活を見返すと「朝:抜き、昼:気分でパンをかじる程度、夜:米一杯に付け合わせ」程度しか食べていないので見事シンデレラ体重を維持し続けている。さすがにこれではまずい、見栄えも悪いから如何にせんと思い検索してみると検索サジェストには「食事 面倒 なぜ」などの語が並ぶ。なるほど私と同じ悩みを持つ人は一定数いるようで、いくつか解決策を挙げてくださっているサイトもある。しかし、そうした記事を読んでいると彼らのほとんどは一人暮らしで、食事が面倒というより準備片付けが面倒だという意見であった。なのでここでは実家暮らしの私がこうなった原因を分析してみる。

 

①食事=栄養補給

 私は食べることを生きるために必要な行為としか思っていない。要するに機械に燃料を補給するのと同じ感覚である。極論、サプリのみでもなんとかなる環境になったら食事をやめかねない。例えばパンの山を見て多数の人は「あんぱんよりメロンパンのほうがいいな」とか思うのかもしれないが私は「適当に取ったけどまあまあカロリー高いしこれでいいや」程度である。食事が好きな人は「楽しいから」という理由をよく挙げるが何が楽しいのかご教授願いたい。

 

②食事に対する恐怖

 私のおなかが弱いという話は以前書いたが、このことも影響していると思う。朝家を出る前に何か接種しただけで腹痛を起こすというのは大きなストレスだ。通学の電車内で下したらどうしよう、朝番のバイト中に下したら……などと考えると、よし朝飯を抜こうとなる。朝飯に限らず「昼食べたら午後の授業中眠くなるから」「夕食食べすぎると体によくなさそうだから」など食事にリスクをリンクさせてしまっている。大学生でいるうちは遅刻しようが授業中寝ようがなんとかなるものの、今から社会人生活が不安で仕方ない。

 

③食事より優先したいことが多い

 冒頭にやっていた作業を切り上げないと食事ができないから面倒だと書いたが、要するに食事の優先度が低いのだ。作業といってもスマホをいじっていたとか動画の途中だからとかの傍から見れば食後に再開すればいいのでは?くらいのことだが、私にとって食事よりそれを継続する方が重要なのだ。

 

④食費がもったいないと感じる

 私の家の場合昼ご飯は自分で調達しなくてはならないのだが、そうなると興味のない食事にお金をかけたくないとなる。真に浅はかな考えだと自覚しているが、昼飯に400円のコンビニ弁当を買うならその分趣味に回した方がよほど有意義だと考えて抜きにしたり、100円の菓子パンで済ませたりという行動をしてしまうのだ。昼飯を買うというだけでこうなのだから仮に一人暮らしになったらどうなるだろう、考えただけで恐ろしい。

 

⑤食事が遅い

 食事が遅いと当然周囲を待たせることになるが私はこれがたまらなく嫌なのだ。自分のせいで、自分と食事をしてくれる人を待たせ、気を使わせてはいないか気が気でない。もう一つ、食事が遅いと料理が冷めてしまい味が落ちるせいで余計に食指が伸びなくなるということもある。

 

自分で気づいた理由だけでもこれだけあるのだ。しっかり分析すればまだまだ原因が浮かび上がるとは思うがそこまでする気はないのでここまでに留める。

当然自分なりの対策もしているのだが、例えばマナー違反であることは承知の上、一人で食事をする際に食事をしながらスマホを触るということをやってみた。最悪であった。食事が上の空になって味も印象に残らず余計に時間がかかるようになった。ほかにも食事を小分けにするなどしてみたのだが諸事情でなんの解決にもならなかった。正直もうどうにでもなれと投げてしまいたいが自分の体のことなので、せめて63kgを目指していきたい。この記事を自身のスローガンとする。

 

 

 

唯一改善効果があったものといえば、北海道の食事であろう。

アメリカ1/3横断の旅④(サンタフェ→アルバカーキ、帰国編)

7日目。最終日。

5時頃目が覚めたのでベランダから朝のサンタフェを拝む。

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ホテルで朝食を食べようとしたらそれにしては高かったので、街を散歩して美味しそうなものをブランチとすることに決定。この日は昨日入りそびれたロレット教会に行く、のだがその通り道の祭り会場でjumbo smork turkey legs を食べた。アメリカンサイズにjumboと付くのだからさぞかし大きいのだろうと覚悟はしていたが、想像の2倍のものが出てきた。食べ物をみて肝を冷やしたのは人生で初めてだ。

手を油だらけにしたのでホテルで手を洗ってから再度教会へ行くと、同じく観光客が入場待ち列を作っていた。待ち列に様々な言語で「奇跡か、それとも建築の粋か」(恐らく螺旋階段のことだろう)と書いてあったのが印象的だ。4$を払い中に入ると、観光客向けのミサか何かが始まろうとしていた。時間さえ許せば聴きたかったしそうするのがマナーだろうが、15分程度しか滞在時間が取れなかったため撤収した。教会に入ったのは中学生ぶりだと思うので雰囲気が懐かしかった。カトリックのミッションスクールに通っていたことがあるので未だに教会に入ると心が落ち着く。

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宿に戻りつつ道中にあるお土産店へ。店員のおばあちゃんが「私日本語知ってるよ、おはよう、ありがとう」と話しかけてきたのを覚えている。

そろそろ時間が迫っていたが、帰り道にあるハーゲンダッツの店へ。スモールが日本で市販されているサイズである。イートインスペースがあり、私はラズベリーソルベ(せっかくなのでミディアムにした)を死ぬ思いで食べきった。

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12時にチェックアウトし、空港のある隣町アルバカーキへ。しかし飛行機は明日の6時発なので空港泊である。過酷な戦いに備えつつお土産を買いにウォルマートを3軒回るもまだ時間を持て余し、横にあったホームセンターにも立ち寄った。ここで2日目に追加注文されたトレーダージョーズのエコバッグを買いに行ったのだが、日本人4人がエコバッグだけ10枚近く買うのはあまり異様であり、店員と「なんでこんなに買うの?」「日本で人気らしい」みたいな会話をする羽目になった。アメリカのホームセンターは初めて来たが、正直日本のそれを敷地、商品、客全て2,3倍したようなものであまり目新しさはなかった。

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夕食はhootersというファミレスとバーの中間のような店へ。詳しくは各自検索していただきたいが、大変良い時間を味わさせていただいた。ただしサンドウィッチを頼んだのにタコスが出てきたのだけは納得がいかない。下の写真は「マヒマヒサンドウィッチ」である。

これをアメリカでの最後の晩餐としアルバカーキ国際空港へ移動、徹夜の始まりである。なお友人が起きてるのを良いことに3時間ほど寝た。

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空港泊は本当に暇なもので店も閉まり人もいない、あるものはwifiのみということでポケモンGOをひたすらやっていた。空港にはジムが4つあったので全て制覇しつつ、北米限定ポケモンケンタロスを探したが結局見つからなかった。写真はジムを全制覇した図。

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アルバカーキからダラスまで飛行機で2時間、そこから1時間で成田行きに乗り換える。ダラスのスタバでsalty caramel Mocha Frappucinoを飲みながら免税店を巡り、結局この空港で「ドル使わなきゃ」と自分に言い訳しつつ30$程落としてから成田行きに搭乗。

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飛行機の中でアメリカの酒飲み納めしようとアテンダントにビールを頼んだら年齢確認をされた。サンタフェで「高校生か?」と聞かれたことがあったが日本人は幼く見えるのだろうか?

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15時頃成田着。なぜか翌日から北海道旅行が控えているので帰って即寝ることにする。

アメリカ1/3横断の旅③(フラッグスタッフ→サンタフェ編)

5日目。この日はフラッグスタッフを出て次の町、サンタフェを目指す。唯一美味しいサラダの町ということで非常に楽しみである。いや楽しみな理由は他にちゃんとあるのだが。

出発前にウォルマートで水を補給した。最初の目的地はアリゾナ大隕石孔である。何もない荒野を1時間ほど走ると山のようなものが見えるが、これがクレーターだ。18$を払い中に入ると博物館と展望台があり、博物館の方は宇宙に関する説明を英語で読んでもさっぱりだったので早々に展望台に移動した。日本なら仮にクレーターがなくても十分観光地になるだろう絶景の中で備え付けの双眼鏡を覗くと、クレーターの観測施設や隕石が落ちた穴なとが見える。残念ながら一番下まで降りることはできなかったがそのスケールは圧巻であった。

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次に目指すのはペトリファイドフォレスト。こんなところ日本人が来るわけないと思っていたのだが入場ゲートで日本語のパンフレットを渡されて驚いた。年間何人くらいが来るのだろうか。名前の通り木の化石が砂漠の中に転がっている異様な光景が広がる国立公園だ。まさに叩きつけられる自然という表現が正しい。化石になった木は、遠目に見ると明らかに朽木なのだが近寄ると石のきらめきと白、赤、黒などに色付いており、石であることがわかる。車道の横に遊歩道が整備されているがそこは砂漠の真ん中である。注意書きに「車外に行くときは必ず水を携帯し帽子をかぶること」と書いてあったが、帽子を持っていなかったので私が感じた暑さはそれ以上であった。水曜どうでしょうではまだ遊歩道がなかったのか木に触れたり座ったりしていたが、それが出来なくなったのは残念だった。自然保護のために仕方ないというか当然のことなのだが。

公園入り口と最奥にビジターセンターがあり、そこでインディアンの工芸品が多く販売されていた。見る分には美しいアクセサリーがあったが、日本でつける勇気は出なかったので購入は見送った。そんな高いものでもなかったし記念に買っておけばよかったかもしれない。

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実は公園の手前で引き返す予定だったので時間が大幅に遅れ、サンタフェの手前の町アルバカーキに着く頃には日が暮れてしまっていた。サンタフェの夕暮れが美しいと聞いていたので是非見たかったがそれは明日に回すとして、その代わりにアルバカーキの夜景を見ることができた。荒野の中に突然広がる都市の明かりは一見の価値ありだ。

さてサンタフェに20時頃着き…と思っていたのだが、アリゾナ州ニューメキシコ州の間で1時間の時差があり既に21時になっていたことを、ホテルロビーの時計で知る。慌ててホテルの横にあったスーパーで冷凍食品のピザと白身魚(多分タラ)、ビールを購入し食事をとった後就寝した。ピザはオーブンがなかったのでフライパンで焼いた。「焼いてくれるなら食べる」と言ったのに焼いてる間に寝た友人は絶対に許さない。

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余談だが、この街は英語圏外の観光客があまり来ないのか、こちらが英語を介さないと分かってもそのまままくし立てられる。ロビーの説明も5%くらい(朝食の場所と部屋番号)しかわからなかったので、もし行く方がいれば頑張ってほしい。


6日目。この日はサンタフェ市内をゆっくり観光する。朝食は恐らくホテルで出ているのだが説明がよくわからなかったので、前日焼いて食べなかったピザを2枚食べた。日本人の胃には優しくない生活だ。

観光に出る前にウォルマートに立ち寄り飲料水を確保。24本2.49$で格安。やはり生活必需品だからであろう。

最初の目的地はランチョデタオスという地域にある、San Francisco de asis churchという名の土造りの教会。観光地化されていないせいで近づく事すら難しかったが小さいながらも立派な教会である。ただ中に入れない雰囲気が漂っており、残念ながら内装を拝むことはできなかった。

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隣にあったメキシコ料理の店で昼食。beef and beans burritoなんたらを頼んだら、ビーフは美味いものの謎の豆があんこの味を5倍くらいに薄めた味で申し訳ないが口に合わない。トイレの場所を教えてもらうために店員と会話して初めて真っ当に英語を使った気がする。

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その後今日泊まるホテルEl Doradoにチェックイン。およそ分不相応な感じ漂う高級…どのくらいかというとどこかの結婚式の披露宴をやっていたり、駐車場に自分で止める必要がない(係員がやってくれる)ようなところだ。ちなみに駐車場係員に話しかけたら「俺は今休憩中だから受け付けないよ」的なことを言われて追い返された。羨ましい。

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さて散策である。この街は店、道全ての規模が日本サイズで多くの人が出歩いていてそれもあって非常に治安がいい。この日はfiesta de Santa Fe というお祭りが開かれていて出店やバンド、飲食店が軒を連ねて活況に包まれていた。出店ではメキシコ料理やおぞましい色のお菓子にアイス、アクセサリーが売られていた。ここは夜に起きる一件の舞台となる。

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会場を後にして向かったのはサンミゲル教会、アメリカ最古の教会である。結婚式場としても使われているようで、チャペルの鐘が町中に響いていた。またここの裏にはoldest houseと呼ばれるアメリカ最古の家がお土産屋として残っており、歴史好きとして思うところがあった。

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サンミゲル教会の近くにはロレット教会がある。ここは支柱のない螺旋階段が設置されていて「サンタフェの奇跡」とも呼ばれる。ここを訪れた時はちょうど結婚式が開かれていたので明日に回すことにした。その後は街並みを眺めながら商店街を散策。裏路地にも沢山の店があり、つい民族チックな模様が取り入れられた毛布を買ってしまった。

夕食はホテルの近くのバーでバーガーとビールを飲んだ。店員がとても親切で英語が通じないとみるや身振り手振りで説明してくれ、ビールの注文に至っては3種類程試飲させてくれた。「この店で一番人気のビールをくれ」という厚かましい注文にも応えてくれた。運ばれてきたIPAはあいにく私の口に合わなかったが、友人は美味い美味いと飲んでいた。

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ホテルに戻る前に先ほどの祭りをもう一度覗こうということでそちらに向かったのだが、そこでちょうどバンド演奏が行われていたので観客に混じってみたが驚いた。演奏が始まると同時に30人ほどの観客が突然踊り出したのである。若い女性や中年夫婦がおもいおもいの動きでバンドを盛り上げる姿に、この旅行中最大の国民性をみた。1曲を除いて知らない曲だったが、それでも自然と彼らの動きに乗せられてしまうような空気がある土地柄が観光客に話しかけてくる理由の一端なのではないだろうか。

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明日はそこまで早起きではないのだが、疲れによって早めに就寝。どうでも良いが4人全員しっかり歯磨きして寝た日がない気がする。毎晩誰かしら風呂待ち中に寝落ちしている。

 

アメリカ1/3横断の旅②(フラッグスタッフ・グランドキャニオン編)

3日目。7時にホテルを出てフラッグスタッフというグランドキャニオンの南にある街へ向かう。出発直前にスタバでトリプルモカフラペチーノを注文したところ日本のクリーム増量以上に盛られた。

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ネバダ州とアリゾナ州の境にあるフーヴァーダムに立ち寄り観光した。黒部ダムの5倍の発電力を有する1931年着工36年完成の巨大ダム(地球の歩き方参照)はやはり圧巻である。ここでそれぞれの州の間の時差(1時間)があるはずで実際Nevada timeとArizona timeと書かれた時計が二つ並んでいたのだが、アリゾナサマータイムを導入していなかったので同じ時間を示していた。この時はそれを知らなかったので「両方電波時計ネバダ時間を拾ったのでは」「ネバダから来た職員がなにも考えずに合わせたのでは」とか馬鹿な話をしていた。

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アリゾナ州に入り40号線をひたすら東へ走り、キングマンという町からいわゆるルート66に入る。ここで昼食にステーキを食べた。8オンスという常識的な量、当然の如くついてくるポテトもマックのLサイズ程度という良心的な量だった。ただ前菜として出てきた豆を煮詰めたものがなんだったのか謎である。

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ルート66ビジターセンターもあり、その歴史を紹介するミュージアムやマークをあしらったTシャツなんかを売っていた。なぜかこの国のお土産屋にはTシャツとマグネットとキーホルダーが必ず置いてある。ルート66のマークが道に描かれたところで写真を撮りたいと思っていたのだが、街中山道どこにもそのポイントがなく残念だった。貨物列車(サンタフェ鉄道というらしい)が並走している区間があり、通るたび編成数を数えたのだが150は下らない。調べたところ北米の貨物列車は7kmを超えるものもあるという。日本の旅客車両が1両20m程度らしいので、8〜10両編成だと200m程度。貨物と旅客を比べるのも変だがその長大さのイメージはしやすいと思う。

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さてフラッグスタッフの宿に着き夕飯の買い出し(自炊)をした。なぜかパスタを作るのが定番となっている。今回作ったのはミネストローネとアヒージョなのだが、材料が揃わなかった割になかなかどうして美味しかった。茹ですぎと唐辛子入れすぎの反省を明日に活かそうと決心しつつ、5時起きに備え早めに就寝。

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4日目。グランドキャニオンを目指し無事5時に起き6時に宿を出た。まだ陽も出ていなかったので半袖で出たら冬のような寒さだった。道中のマックに寄って朝マック的なものを食べたのだが、ソーセージマクマフィンとドリンクで2$という格安であった。ちなみにこの国のドリンクは空のコップを渡されてドリンクバーの様に好きな飲み物を注ぐのだ。注文の際に「coke please.」と言って勝手にスプライトを飲んでも問題ない。(少なくとも何か言われたことはない)

9時前にgrand canyon national parkに到着。ゲートで35$を払うと日本語のパンフレットを渡された。流石世界遺産ともなれば日本人観光客も多いのかと思うとともに、ラスベガスからレンタカーで来る人はどのくらいいるのかと心の中で笑っていた。

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さてパーク内を車で進みホースシューベンドを目指す。一度は写真を見たことがあるであろう撮影の名所である。駐車場から砂と岩の砂漠を20分ほど歩いたところにあるフォトスポットに行くだけで靴の中がザラザラになった。ここは一部柵が設置されておらず、自己責任でどこまでも近づくことができる。私は小心者だがせっかくなので蛮勇を振るい崖に腰掛けてみた。下の川を通るカヌーが米粒のように見える高さ、後ろからは人の気配、かなりの恐怖であったが一度はやってみてほしい。二度と味わえない感動がある。

やはり名所ということで日本人のグループと2,3組すれ違ったのだが、その中の1つが我々のような男子大学生グループでありしかもレンタカーで旅をしているようだった。昼に寄った田舎のマックにいたから間違いないだろう、真っ当な旅行者はそんな所で食事をしない。

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この後はグランドキャニオン探索のメイン、navajo tourである。これはグランドキャニオンの谷底を歩ける人気のツアーなのだが、そこに行くのにジープのようなトラックでオフロードを15分ほど揺られないといけない。「眼鏡、帽子、カメラその他落としても止まらないからな。俺を脅しても止まらないからな。」と話すガイドが印象的だった。台湾人2人、欧州人2人、日本人4人でまとめられ谷底を進む。ガイドが色んな説明を(9割聞き取れないが)してくれる。「ここの光がクマに見える」「ここの岩がリンカーンの横顔」「6,7月は太陽光が谷底に注いでレーザーみたいで綺麗なんだ」「クレイジーな奴が自分のイニシャルを彫りやがった」中でも印象的だったのは「あそこがワシの巣で糞害がすごいから撃ち殺した」自然保護と観光資源の釣り合いの難しさである。

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このツアーが終われば後は帰るだけなのだが、ここでトラブルが起きる。街と街のど真ん中(両方から50kmほどの地点)でガソリンランプが点灯したのだ。要するにガス欠寸前である。なんとか街のはずれにあるスタンドに間に合ったものの、ポケットwifiすら借りていない身としては肝を冷やした。

無事帰り着き、夕食。この日はミートパスタ、サラダ、アヒージョに各々好きな酒である。酒はコンビニで買ったのだが、ここでもパスポートの提示が求められた。客がいない間は気を抜いている代わりに徹底した仕事ぶりである。

パスタを600gまとめて茹でたらアルデンテの3倍くらい硬く、サラダはSanta Fe styleが売り切れており代わりのshefが非常に不味かった。おまけに疲労と酔いで全員風呂にも入らず眠ってしまった。思い返すとこの夕食が一番しんどかった気がする。

 

アメリカ1/3横断の旅①(ラスベガス編)

9/3~9/10の8日間、友人たちと4人でアメリカを旅行した。「水曜どうでしょう」という番組でやっていたアメリカレンタカー横断という企画を真似しようとしたのだが日程と労力の不足を感じ1/3程で帰国したのだが、今回はその旅行記を書いてみようと思う。

旅程は以下の通りである。

1日目 羽田発、ロサンゼルス着。国内線でラスベガスへ

2日目 ラスベガス観光

3日目 ラスベガス発、レンタカーでフラッグスタッフ

4日目 フラッグスタッフからグランドキャニオン観光

5日目 フラッグスタッフ発、レンタカーでサンタフェ

6日目 サンタフェ観光

7日目 サンタフェ発、レンタカーでアルバカーキ

8,9日目 アルバカーキ発、国内線でダラスへ。ダラスから成田へ帰国。


1日目。羽田からアメリカン航空に乗り一度ロサンゼルスへ飛び、そこから国内線でラスベガスのマッカラン国際空港へ。国内線への乗り継ぎの際チケットが見つからずいきなり旅の壁にぶち当たった。ラスベガス空港近くのレンタカーを借り、ルクソールホテル(RUXOR)へ。

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ルクソールといえばエジプトを想像する人も多いと思うがその名の通りピラミッド型をしたホテルであり、内装もヒエログリフや太陽神殿が再現されているため「ピラミッドパワーでカジノも当たるのではないか」という気分になる(なるか?)。ちなみに隣のホテルは銃乱射事件の舞台となったマンダレイベイであり、大勢の死者が出た広場の近くでもあるのだが、そんなことがあったとは微塵も感じない活気に包まれていた。

この時点で午後だったので少し休んだ後夕食を食べにホテル近くを散歩。stock shackというハンバーガー店で夕食。ビール飲みたくてbeerを頼んだらroot beerが出てきた。

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その後ホテルに戻り併設のカジノへ。某番組を真似して50$1本勝負開始。ブラックジャックがめちゃくちゃ面白かった。ディーラーの手つきを見てるだけで快感である。あのチップ1枚500円ちょい、プラスチックの板だからなにも思わないけど500円玉を積んでいくのと同じだと思うと人間は愚かだと思う。ちなみに40分くらいで全部溶けた。失意の内に就寝。


2日目。予定より2時間ほど早く起きたので1階にあるコンビニに軽食と飲み物を買いに行ったところ、ベガス価格というべきかジュース2本とサンドイッチ1つで25$近く取られて呆気にとられた。朝食に買っておいたサラダ(Santa Fe style)を食べる。アメリカのスーパーで売ってるサラダはどれもこれも変な味だったり知らない野菜が入ってるのだがこれだけは日本で食えなくもなさそうな味がして美味い。奥に見えるのはsunnyDというジュース。オレンジ、ミックス、ベリーの味があるがオレンジ味だけ小さいパックをお土産にするくらいには美味しい。

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母からお土産に頼まれていたトレーダージョーズのエコバッグを購入。買った報告したら追加で3枚買ってきてくれと言われてキレた。昼食はSAKANA SUSHIという寿司屋へ。去年アラスカで酷く不味い海鮮丼を食べたのでどんなものかと怖いもの見たさだったが本格的でうまかった。tobikoを注文したらキャビア(?)が乗っていたことと、メニューをみても何の魚なのかわからない事以外は完璧。日本でもいけると思う。f:id:aiz4ryhe:20180917141744j:image
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その後、「アメリカ行ったら実銃撃ってみたい」という思いつきで予約しておいたthe GUN STOREでハンドガンと自動小銃2丁を体験した。耳あてとゴーグルで防備を固めた感想は大袈裟だと思ったが1発撃ってみるとものすごい音と衝撃、思わず体が仰け反るほどである。自動小銃に至っては肩が痛くなる気すらする。

ちなみに的のデザインを選べるのだが、その中に某北の指導者モチーフの人物が描かれているものがあり自由の国を強く感じた。


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この日の夜はホテル近くのフードコート内でピザを食べた。1切れ8$でかなり高いと思いきやかなり大きなサイズ、これに800mlほどのコーラ(その他炭酸系)が強制的についてくるから満腹である。

さてカジノリベンジ、この日も50$を握りしめブラックジャックへ。友人が100$溶かしているのを横目に見ながら50$を76$にできたので昨日と合わせて100$が76$になった。まあリベンジ成功と思っておこう。

日付変わったあたりでもう一度遊びに行きたかったのだが、疲れたのでシャワー浴びてベッドに倒れこんだ。

 

ゲームとストレスの話

ゲームのジャンルの1つに音ゲーと呼ばれるものがある。太鼓の達人とかそういう類のものだ。最近はスマホでも多種がリリースされておりプレイ人口が多くなっていると思う。私はここ1年ほどこのジャンルのゲームに傾倒しておりゲームセンターに通い詰めている。いや、そういうと所謂『ガチ勢』の皆さんからおしかりを受けそうなのだが、少なくとも自分の中では長続きしている方なのである。そんなゲーム如きに大枚をはたいて、などと批判的な意見もあろう。実際私もこの趣味にはまるまでゲームセンターにはあまりいいイメージはなかった。ただそのイメージを覆し、今や日々そこに行くようになるというのはそれなりの魅力があるのではないかと思った。それはなにか。

一言でいうと、簡単に成長を実感することができるという点である。どのくらい上手にプレイできたか、自分がどのくらいの上手さなのか(レーティング)が逐一数値化されて表示される。ハイスコアを出せた、レーティングを更新した、などが非常によくわかる。いわば自分との闘いが手軽に楽しめてその上ストレスフリーなのだ。ゲームで苛立ってどうするのかという話だが、対戦ゲームと違って相手(弱い相手とマッチングできれば勝ちやすい)に左右されることなく、運要素に左右されることもないというのも気分よくプレイできる一因であろう。

もうひとつ好きなゲームがある。ポケットモンスターシリーズだ。とはいっても今年に入ってからはほとんどプレイしていない。なぜなら非常にストレスの溜まるゲームだからである。分類的には対戦ゲーム、しかもその勝敗に運要素が大いに絡んでくるのだからイライラしないはずがない。ゲームというのは本来娯楽でありストレス解消の手段であるはずだ。たぶん対戦ゲームも「負けた悔しい、次は勝てた嬉しいな」くらいの気持ちでやるのが一番精神衛生上良いのだとは思う。それでも勝ち負けが記録される以上その数字を意識してしまうのが人間である。だから私はポケモンをやらなくなった。

自分との闘いというのは実に便利な言葉である。敵の強さを自分で設定できるのだからいくらでも勝てる。「そんな甘いことしてたらうまくならない」なんてことを言われるかもしれないが、ゲームは娯楽である。

所謂『ガチ勢』の界隈に(今もつま先程度は入っているが)所属していたことがある。プレイスタイルの批判、意見の押し付け合い、プレイ中の罵声。本当に彼らはゲームが好きなのかと問うてみたくなる異様な空間であった。私がそこの空気に合わなかっただけだから彼らを批判するわけではないが、ここでの経験がゲームへの向き合い方を変えたと言っていい。ゲームは娯楽。楽しければそれでいい。音ゲーはまさしくそれを叶えてくれるジャンルである。

 

さて、私は音ゲーに何円使ったのか。それを考えるのはストレスになるので、今後も一切振り返らないであろう。

中学受験合格記

大学4年の夏を迎えた私がなぜこんな記事を書くのか。私が通っていた塾のホームページを見たからに他ならない。個人塾に通っており、「まだやってるのかな、潰れたかな」という興味本位で検索したところ『第一志望合格率75%!第二志望合格率95%!』という売り出しが出てきたので、ついその全文を読んでしまった。そこに卒業生のメッセージというコーナーがあったので、それなら一塾講師としてこれ以上記憶が薄れる前に書き留めておこうと思った次第である。

私が中学受験をすると言い出したのは確か4年生の冬であったと記憶している。友人が中学受験をするというのでやりたいと言い出したはずだ。それで近所の大手受験塾に通いだした。しかしそこの塾長が極めて型破りな講師であり、6年の春に独立、自然とその塾長についていき個人塾に通いだすという流れであった。

どれほどの型破りであったか。彼はいわゆる熱血漢(今なら訴えられるであろう行為も平然と行うほどの)であり、教室の壁にこぶしで穴をあけたり机を投げ飛ばしたり、時には体罰も行っていた。私自身も殴られた。この記事でそれについて非難する気はないので省略するが、いわゆる昭和的教育が行われている塾であった。ただ、その分本当に子どもに対して本気で向き合ってくれる塾であったと思う。塾長は職場に寝泊まりし、受験直前(1月~)などまだ夜が明ける前から塾を開放し自習室としていた。「わかるまで帰さない」の標語通り帰宅時間が23時を過ぎることもあった。1月末の受験直前(中学受験の多くは2月1日~7日付近で行われる)は学校を休んで塾に通っていた。

その中でも私が最も記憶しているのは6年冬に行われる正月特訓と当時呼ばれていたもので、その名の通り元旦から勉強漬けにされる講習だ。たしか全員一律の問題集を同時に解き始め、誰がどこまで解けたかを競い合う方式であったと思う。ホワイトボードに正の字で記録されるため視覚的にわかりやすかった。この講習がなぜ記憶に残っているか。やはりここで「受験生」としての覚悟が生まれたからだと思う。受験本番に向けて大詰めを迎えみんなが集中している中で競うということは、そのまま受験本番の姿に直結する。私は塾の中でも成績のいい方だったから当然期待もかけられたしその分期待に応えなければという気持ちも子供ながらに持っていた。だから正月特訓でもそれなりの成績を収め、確かなにかの賞をもらったはずである。

これほどの勉強漬けの日々を送っているのだから、上記の合格実績も当然といえる。卒業生のメッセージでも勉強量とそれに応える講師陣の熱意に感謝する声が多数見受けられた。

今は中学受験を指導する側となっているが、受験に成功する子供は「受験生としての自覚」を持てた子供であると思う。なんとなく・親に言われてで受験するのではなく、自分がこの学校に通いたいからという明確な意思を持って勉強に取り組めるか。これがある生徒は指導していて自分の弱点克服に励むし、ない生徒はそのままなあなあで本番に挑み、そのほとんどはあえなく玉砕している。現在指導している生徒の一部には未だに深夜ゲームをしていたり、漫画が手放せない子供がいる。別にそれらが悪だというつもりもないし息抜き程度には楽しんでもらいたい。そうは言ってもそれで授業に集中できないというのはやはり宜しくない。だから少しでも教育に携わる人間はそれが精神論で終わらないように、まずは指導する側から促していかなくてはならない。

友人を誘うことの話

 私は遊びに行くのはとても好きである。それが一人でもいいし友人と行くのでもいい。ただ友人と行くとなると私はどうしても苦痛に感じることがあるのだ。今回はそれについての自分の思いを書いてみる。

第一に、私は友人を誘うことがとても苦手だ。予定を聞く、自分の要求を伝える、そのために時間を割いてもらう、という3ステップがどうしても苦痛なのである。自分の要求を伝えるときには「相手は行きたくないのかもしれない、でも仕方がないから相手してくれているのではないか」。予定を聞くときには「もし埋まっていたら断らないといけない、それは相手にとって苦痛なのではないか」。など誘うことをためらうようなものが私の脳内を駆け巡るのである。当然自分が逆の立場であれば、どんなことであれ誘ってもらえたら嬉しい。都合が合わなければ素直に行けない旨を伝えて終わるのだし、であれば自分が声をかけたとしても相手がそんな嫌な思いをするはずはないというのはわかっている。それでもどうしても不安をぬぐい切れないのだ。

第二に、だれを誘うべきか判断できないため声をかけるのをためらってしまう。メンバー全員の交友関係や親密さなど考えたらきりがないことを際限なく考え続けてしまうのだ。だから、すでに何度も一緒に遊びに行っているグループでもない限り自分から複数人を誘って予定を立てるということが出来ない。上記の原因と同じように「もし誰それがいるなら行きたくないけど仕方ないか」というような気持ちにさせたらという不安が前面にでてしまう。またこれは自分勝手な事情なのだが、私は往復の車内などは1人でいたい。いわゆるスマホ依存症であるからスマホに触りたいというのもそうだが、ずっと人といると気疲れしてしまうのだ。だから住んでいるところが近い人だと帰宅するまで話さないといけないし誘いにくいと思ってしまう。

以上の様な理由を抱えているため私は人と遊びに行く機会が非常に少ない。誘われることはあるので機会がないわけではないが、いわゆるフットワークの軽い人というのは自分から友人を誘うのを苦にしないのであろうし、率直に羨ましい。先日勇気を出して友人に誘いをかけたのだが、その時は運よく予定が空いており遊びに行くことに成功した。これを一つの成功体験として今後につなげていきたい。

国語の長文読解についての話

 前回の記事で私は塾講師のアルバイトをしていると書いた。今回の記事はその国語の授業中に気付いたことに関する一考察である。

 「国語の授業に長文読解はいらないのではないか」これは教育に少しでも興味を持った人、また長文読解が苦手だった人がよく話題に出すことである。私個人の意見は「要らない」である。論説文ならまだしも、物語文の読解問題は子供の自由な発想の妨げになるだけだし、そもそも設問に対する解答は読み手それぞれで違って当然ではないか、というのが根拠だ。入試の過去問を採点していると起きる現象として、「学校発表の解答、過去問集の解答、私が思う解答、生徒の解答すべてが一致しない」というものがあるのだが、これは当然のことであると思う。その物語になにを思い浮かべ、なにを感じ取るかは読み手に一任されるべきである。論説文も、物語よりは低いにせよ論点のどこに重要性を感じるかは読み手の感性に左右されるべきであると私は思う。

 しかし今日、長文読解の意義について、読解力以外の点から訴えられ目から鱗が落ちた。長文読解のおかげで子供の知的好奇心を掻き立てることが出来るという話だ。

 よくある中学受験向けの長文読解(イメージできない方は書店や古本屋に赴いて過去問集を数ページめくってみて頂きたい)では、おおよそ小学生が知らないであろう事柄が題材として扱われることがある。具体的な例を挙げると、先日私が使用した教材ではヘロドトスについて論ぜられていた。世界史の授業を受けたことがあれば一度はその名前を聞いたことがあるだろうが、周知のとおり小学校では日本史しか扱わないため、彼らはその名前を知らないはずである。しかし問題を解くためには知らない偉人に関する文章を何とか読み解く必要がある。すると彼らの頭の中には、友人たちの誰も知らない知識が植え込まれていくのだ。ヘロドトス本人について以外にもオリエントだとかそういった学校では習わない知識が蓄えられていく。彼らの年代では(少なくとも私が関知する限りでは)雑学を良く知っているだとか単純に頭がいいだとかいう事がそのまま仲間内での評価に勘定されているようであるから、読解しながら快感を得るということもあるだろう。例に挙げたこと以外でも、題材になることは分野問わず様々でありその多くは小学校では習わないことだ。彼らの中には題材になっていたことを親のスマホで検索したりする子もいるようだし、なるほど確かに知的好奇心を煽っているようである。

 私を含め長文読解不要論者は、それを国語の一環としてしか見ていないような気がする。しかし国語の授業を通してほかの知識に訴えかけ、それで少しでも子供が自ら勉強に向き合うような環境を作ることが出来れば、教育の本質を全うしているといえるのではないか。そう思うと、私も国語の授業内容を見直さなくてはならないように感じる。

 

 

バイトの話

就活終了に伴い、長らく休んでいたバイトを再開した。私は塾講師のアルバイトをしている。時給は中々、業務内容は実質子守りのようなものなので非常に楽だ。今回はこのバイト再開で生徒や講師陣と話す中で感じたことを書いてみる。

 

大学4年ともなると(真面目にやっていればではあるが)週1,2回程度しか大学に行かなくなる。すると、あいにく私には学外で遊びに行くような友人は少ないため、人と会話する機会がなくなるのである。ひどい時などコンビニ店員に「あ、そのままでいいっす」の一言を発しただけで一日を終えたこともあった。そんな日々の中で声を発する(断じて会話ではない)機会になるのは面接であった。しかし針の筵の上でオジサンたちから受ける半ば尋問のような、一言間違えれば人生の地の底へ真っ逆さまのような場面での発声など決して心の休まるものではなかった。会話ができなかったのも、私が就活で心を病んだ一因かもしれない。

さて、バイトの話である。結論から言うと、心底楽しい、気分転換になるものであった。

相手はオジサンではなく小中学生である。場所は勝手知ったるバイト先である。立場も少なくとも私は生徒と対等に接するので同格である。言い間違えても「ああごめん間違ったわ~」と適当にかわしておけばいい。楽なもんだ。緊張を感じない中でする会話ほどリラックスできるものはない。精神が小学生のままなのでやけに生徒からも懐かれるから話していて友人と話しているような気すらしてくる。そんな空気の中でする会話は、やはり面接やらグループワークやらでする「発声」とは格別である。あれは今思えば腹の探り合いのようなものであった。

生徒との会話は、友人との会話とはまた違う楽しさがある。彼らは無邪気で、元気いっぱいである。本心から何も考えていないような発言をしてくる。この年になるとそんな発言をする同年代はいないし、もしいたらきっと煙たがられる存在だろう。また聞く態度も話甲斐がある。中高生なら持つ知識でも彼らにとっては新しい、楽しい知識だから、私が少し豆知識を話すだけでも楽しそうに聞いてくれる。そんなわけで彼らとの交流は貴重である。実際そんなことはないのだが、なんの悩みもなさそうな顔で話し、また話す姿を見せてくれる。アニマルセラピーなるものがあるが、これに似ているようなものだろうか。

ここまで書いてなんだが、私は別段話すのが好きだとか得意だというわけではない。冒頭で書いた通り私には遊びに行くような友人は少ないし、サシで話すことなどに至っては苦痛である。しかし、そんな私とも仲良くしてくれる人はいる。それは生徒であったり友人であったりするわけだが、そんな彼らとの交流を、就活終了とともに取り戻した気持ちである。

7月下旬。大学生活もあと8か月程である。バイトも終わるし友人とも会える機会は減るだろう。今のうちに少しでもたくさん、楽しい会話を積み重ねていきたい。

生きていくのに向いていない話

 別に鬱な話でも自殺願望の話でもない。今回話すのは私の体質の話である。

 私は腹が弱い。朝ご飯を食べれば、水を飲めば、アイスを食べれば、湯冷めすれば……腹をこわす場面を挙げればキリがないが、一日に呆れるほどの回数下すこともあるのだ。そんな私が腹を壊しやすいのは、今の時期である。

 こうも連日、太陽とアスファルトに加熱のサンドイッチをされているとやはり水が欲しい、アイスが食べたい、クーラーに当たりたい、など身体を冷やす欲求が湧き出る。衝動に負けて、仮にアイスを食べたとしよう。まず間違いなく腹痛を起こすのだ。そうなるとトイレに籠るしかない。トイレには(少なくとも私の家には)クーラーはおろか扇風機もないから、まるでサウナである。そんな中で10分近く腹痛と格闘する頃には汗だくであり、トイレからようやく解放された私が求めるものは何であろう。言わずもがな冷水である。まず間違いなく腹痛を起こすのだ。……

 夏場、特に最近の様な暑い時期はこのサイクルが日々繰り返されている。さながら無間地獄だ。水を飲まないといけない、しかし飲むと腹を下す。なら部屋を冷やすかとクーラーをつけるとこれまた腹を下す。体質だから仕方ないの一言で済む、というか済まさざるを得ないような愚痴ではあるが、出かけた先でうかつにアイスを食べられないなど、いつ突然腹の爆弾が爆発するかわからない恐怖と戦わないといけない苦しみはいかんともしがたいのだ。店のトイレが比較的自由に使えるという点では、日本人で本当に良かったと思える。

 

 

ああ、暑い。

就活鬱になった話

就活鬱になった。症状を最初に自覚したのは5月18日の朝。某会社の面接に向かう途中、その会社の最寄り駅で体が動かず降りることが出来なかった。なんとか面接には間に合ったが、そんな気分で受ける面接がうまくいくはずもなくお祈り。思えばこれ以前に受けた(そして落ちた)会社も、自覚がなかっただけで顔には出ていたのかもしれない。その後も「新卒入社出来なければ日本人として不適合のレッテルを張られる」という恐怖心にかられ、それだけで面接や説明会に参加し続けた。

このころはまだ(なぜ受かっていたのかわからないが)志望度の高い有名企業の選考に進めておりそれを生きがいにして就活をしていたのだが、それも5月下旬には落ち、いよいよ以って心の支えがなくなった。

 そんな中6月上旬、(本当に出た理由が分からない。送信ミスを疑った。)初めて内々定を獲る。知名度はないが規模は大きい会社だったし、もうここで終わりにしようとも思った。しかしここで思わぬ『敵』が表れる。親(うちの場合は母親)である。私の母親はいわゆるバブル世代に就職した人種であり、高卒にもかかわらず某大企業でOLをしていた人間だ。当時の価値観で私の就活に文句を言ってくるものだから、嬉々として内定報告をしたときには「え、やめてよそんな聞いたこともない会社。大学出て行くところじゃないでしょ」と宣ってきた。

 私は元来「いい人」である。障害者なりかけの私を21年育ててきた親に対して少なからずの感謝の念を抱いている。それもあったのだろうここで終わりにしたいという思いを言えないまま、自分の気持ちを殺したまま就活を続けてしまった。母親の望む、「聞いたことのある、大卒がやってそうな会社」を求めて。しかしそんなあやふやな目標による就活がうまくいくはずもない。ある時は文系SE、またある時は教育関係と様々な会社を受けに行ったが、軸もなく、志望動機もない、そんな面接が通るはずもなくひたすら落ち続けた。そして忘れもしない6月28日。この日私は、あえて社名を出すが、『日立社会情報サービス』の一次面接で人生初の圧迫面接を受けた。「それうちの会社じゃなくていいよね」「内定出てるならそこ行けばいいじゃん」など。これをきっかけに、収まりつつあった就活鬱が再発した。その翌日の説明会に向かう道中に自然と涙を流したほどだ。

 一回目は前述した理由と恐怖心から、就活鬱についてあえて調べなかった。しかしいよいよ以って体力と気力の限界を感じ検索、私が就活鬱であることを自覚した。認めたくない。私は鬱になるタイプの人間ではないと思いたい。しかしなってしまったものは仕方ない。思えば12月16日の合同説明会から就活を始めすでに半年が経ったのである、よくやったものだ。40社以上受けた。内定は2つ取った。私にはまだこの後50年近くの労働が待ち構えている。それを乗りこえるためにも、ここは自らを褒め、慰めつつ就活戦線から撤退するべきであろう。

 人生で最も辛い体験であった。願わくば、これ以上の苦しみを味わう機会のない人生を送りたい。