9号車乗り場

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旅行記やら日記やら

「大学生」

 「22時ごろの大学の校舎に入ったわけなんですね。『大学生』がこの時間もサークル活動で元気な声を出して楽しそうにしているんですよ、私は悲しくなりましたね」―私のツイートより引用、一部改変。

 

 一般に日本の大学は出るは易しなんて批評される。要するに遊んでても4年間経てば勝手に卒業できるようにある程度はできているから、私も成績が平均を保つ程度に遊んだつもりである。ではなぜ冒頭の様なツイートをしたのか。私が思い描いていた大学生活を送ることが出来なかったからに他ならない。

 一般に“大学生”というとなにを思い浮かべるだろうか。飲み会?サークル?オール?……なんにせよ、「大学生といえば勉強だろう」という人は中々いないはずだ。俺は将来博士号を取る!などと崇高な理念を掲げてなんていなかった高校生の私は、そんなイメージを持って大学生になった。今となっても恥ずかしいが、いわゆる大学デビューの真似事をしたこともある。このブログの他の記事を読んで下さった方ならわかると思うが、私はオタクだ。アニメも漫画も読まないような人間がそう自称するのは若干の抵抗がないでもないものの、まあ根がオタクなのだからしょうがない。

 冒頭でわざわざ「大学生」と括弧付けで表記したのは彼らが世間一般に言われる大学生だったからである。発表会やら活動やらにむけて合唱の練習をしたり時には羽目を外して、などする“陽”の人間だ。そんな場面にたまたま居合わせた私は多少酒が入っていたこともあり、残り4か月もない大学生活に懐古と後悔の念を向けた。一緒に旅行に行くような友人はいる。サークル活動にも参加した。飲み会やらも隔週程度には行く。こう書くと、なんだ「大学生」じゃないかと錯覚するがそれは誤りである。何が違うのだとなると、さっきも言ったが私がオタクだからだ。オタクは弱い。社会的立場、社交性、イメージ……本質的にすべてが劣る。本人が如何に努力して挽回せんとしても、オタクというレッテルが張られた以上それを覆すことはできない。スクールカーストと同じと考えてもいいだろう。そして私がいう「大学生」は、そんな人間にはほとんどたどり着けないからである。あなたがオタクなら、このことを少しはわかってくれるはずだろう。まれに例外的に「オタクの大学生」がいる。オタクであって「大学生」である彼らと自分は何が違うのだろう。私の結論は、“「大学生」らしいことに真剣に取り組んだかどうか”である。つまり、世間一般から評価される対象になって日の下に照らされるようになったオタクが「オタクの大学生」になり得る。

 私にも未だに、その差を埋めてみようと思うことがある。染髪だの、“映え”るイベントの写真投稿だのはその表れだ。そんな足掻きを鼻で笑うかのように、私の本質は現実に引き戻してくる。私のやっていることは外面をどうにか取り繕うとしただけのメッキにすらならないオブラートだから当然だ。そうこうしているうちに、あと3か月もしたら、足掻きすらできなくなる。そんな現実が、私に最後の悪足搔きをせよと急かしてくる。

 

 

空しい。