9号車乗り場

9号車乗り場

旅行記やら日記やら

国語の長文読解についての話

 前回の記事で私は塾講師のアルバイトをしていると書いた。今回の記事はその国語の授業中に気付いたことに関する一考察である。

 「国語の授業に長文読解はいらないのではないか」これは教育に少しでも興味を持った人、また長文読解が苦手だった人がよく話題に出すことである。私個人の意見は「要らない」である。論説文ならまだしも、物語文の読解問題は子供の自由な発想の妨げになるだけだし、そもそも設問に対する解答は読み手それぞれで違って当然ではないか、というのが根拠だ。入試の過去問を採点していると起きる現象として、「学校発表の解答、過去問集の解答、私が思う解答、生徒の解答すべてが一致しない」というものがあるのだが、これは当然のことであると思う。その物語になにを思い浮かべ、なにを感じ取るかは読み手に一任されるべきである。論説文も、物語よりは低いにせよ論点のどこに重要性を感じるかは読み手の感性に左右されるべきであると私は思う。

 しかし今日、長文読解の意義について、読解力以外の点から訴えられ目から鱗が落ちた。長文読解のおかげで子供の知的好奇心を掻き立てることが出来るという話だ。

 よくある中学受験向けの長文読解(イメージできない方は書店や古本屋に赴いて過去問集を数ページめくってみて頂きたい)では、おおよそ小学生が知らないであろう事柄が題材として扱われることがある。具体的な例を挙げると、先日私が使用した教材ではヘロドトスについて論ぜられていた。世界史の授業を受けたことがあれば一度はその名前を聞いたことがあるだろうが、周知のとおり小学校では日本史しか扱わないため、彼らはその名前を知らないはずである。しかし問題を解くためには知らない偉人に関する文章を何とか読み解く必要がある。すると彼らの頭の中には、友人たちの誰も知らない知識が植え込まれていくのだ。ヘロドトス本人について以外にもオリエントだとかそういった学校では習わない知識が蓄えられていく。彼らの年代では(少なくとも私が関知する限りでは)雑学を良く知っているだとか単純に頭がいいだとかいう事がそのまま仲間内での評価に勘定されているようであるから、読解しながら快感を得るということもあるだろう。例に挙げたこと以外でも、題材になることは分野問わず様々でありその多くは小学校では習わないことだ。彼らの中には題材になっていたことを親のスマホで検索したりする子もいるようだし、なるほど確かに知的好奇心を煽っているようである。

 私を含め長文読解不要論者は、それを国語の一環としてしか見ていないような気がする。しかし国語の授業を通してほかの知識に訴えかけ、それで少しでも子供が自ら勉強に向き合うような環境を作ることが出来れば、教育の本質を全うしているといえるのではないか。そう思うと、私も国語の授業内容を見直さなくてはならないように感じる。