9号車乗り場

9号車乗り場

旅行記やら日記やら

ラブリイマイセルフ(ロゴタイプ産駒)

半年ぶりのお気持ち表明記事。

小さい頃から母親に言い聞かされていた、よく覚えている言葉が2つある。 「人間見た目」 「『優しい』はなんの長所もない男にかける慰めの言葉」

自分が第三者なら、とんでもない親だなと思う。友達の友達くらいの関係性のやつの親がこんなことを言っていたら、それなりにヤバいやつ認定をしていたと思う。

でも俺は、まあそうなんだろうな、と思っている。

まずもって、人間見た目だというのには100%の肯定をする。見た目が良いというのは人生を豊かにすると自信を持って言える。 街を歩いていて自信なさげにしている美男美女を見かけたことがあるだろうか(いや、ない)。自信に溢れている不細工はいるにせよ、 見た目が良ければまず自分に自信を持つことができる。猫ですら容姿はかわいい方が愛される。


俺の長所はなんだ、と自己分析してみる。 勉強、運動、稼ぎ、性格、活力、どれをとっても全て中途半端だと思う。それも偏差値50くらいのところで安定している。端的に言って、可もなく不可もない一介のモブだ。 そういう人間の長所を挙げるのは難しい。だから「悪い人じゃないよね」の意味で「優しいよね」と評価される。俺は人から性格を批判されたことはないが、なにも良いヤツではない。にも関わらず優しいと評価されたことは何度もある。まさしく、「『優しい』はなんの長所もない男にかける慰めの言葉」だ。

それでも俺は自分が好きだ。その発端は小さい頃から一人っ子で鍵っ子だったからかもしれないし、中学の時のいじめだったのかもしれない。自分だけは自分の味方でいないといけない状況があったから、自分のことをなんの根拠もなしに好きでいないといけなかったのだと思う。 ところが、大学に入って突然、自分を愛することの根拠が出来た。

「見た目」である。

高校までの18年間で(まあ赤ちゃんの頃はナシとして)容姿を褒められたことなど1度もなかったはずだが、やけに容姿を褒められることが多くなった。 あまり書くと読む人によっては不快だろうし、俺も後日読み返したときに記事ごと削除することになるかもしれないから細かくは書かないが、どうやら世間から見た俺の容姿は偏差値50を越えてくるらしい。はじめて、わかりやすいところで偏差値50以上を取ることが出来たのだ。

それからというもの、俺は自分の容姿が好きになった。以前、Twitter上で“自分のことを好きでいよう!”みたいなイデオロギーが起きた時期に、鏡の中の自分にイケメンだ美人だと言い聞かせる云々という記事だかツイートが出回った時期があった。その記事の前から自然と同じことをしていた。どんどん自分を好きになる根拠が強くなっているのを感じたのを覚えている。

俺は俺のことが好きだが俺みたいな性格やつのことは別に好きじゃないみたい(最低なback number)だと最近気がついた。 なぜだろうかと考えたが、それはやはりそいつが俺ではないからだと結論付けた。 はっきり言って、自分の顔面が好きだなどと公言して宣うバカは嫌なヤツだ。なんだお前、と、俺でも思う。テストで100点取って見せびらかす小学生と同じだ。 それでも俺は俺のことが好きだし、だからこそ、加齢と共に降っていく自分の見た目に人一倍怯えているのだと思う。

・ ・ ・ というところまでを一昨日の夜、寝付けない中で考えて寝落ちした。

三つ子の魂百まで。雀百まで踊り忘れず。 自分を好きになるのはとても大切だと思いますが、度を越すとめんどくさいことになりますね。