9号車乗り場

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旅行記やら日記やら

”オタク的会話”

今の同期とする会話と大学の友人たちとする会話で明らかに違う点がある、と感じている。どっちが楽しくてどっちが居心地がいいとかそういう話ではなく、その原因は話題の本筋だと思う。

私が文学部で日本史を専攻していたから……というのもあり、私の周囲にはいわゆる”オタク”が多い。ゲーム、アニメ、歴史、鉄道etc...ジャンルは問わず様々な種類のオタクに関わってきた。オタクの会話というとどうイメージされるだろう。敢えて批判的な表現をすれば「自分の好きなことを延々語る」「相手の興味如何に関わらず知識を話す」「本筋から外れた話題に広がっていく」このあたりがオタク的会話の特徴だと考えている。社会的には”喋るコミュ障”に分類されるタイプだろう。俺も多分このタイプだろう。

 

ところで、暇なときにwikipediaを眺める人間があまりいないことを最近知って驚いた。例えば、ふと頭に浮かんできた世界史やら宇宙やらの用語を調べてみたりとか。それが頭に定着するかはさておき、そういうことをして知的好奇心(なんていうと高尚な言い回しだが)を満たすことをする。今までの友人にはそういう人が結構いたから、わりとメジャーな暇の潰し方かと思っていたがそうでもないらしい。wikipediaのリンク飛びまくったりとか、楽しいのにね。で、そうしていると、ある程度は雑学的な話が身に付いてくる。クイズ番組やら、雑学番組やらを見ていても「ああ聞いたことあるな、それは知ってるな」という感想になりやすいので、たぶん俺は雑学を知っている部類なんだと思う。その要因はwikipediaだけではない。最初に言った通り、オタクとのオタク的会話は知識的な話になりやすい。「本筋から外れた話題に広がっていく」ところとか、特にwikipediaのリンクを飛び回っていく様にそっくりだ。オタク的会話はwikipedia的会話と呼んでいい。

 

ところが、今の会社の同期たちは、悲しいかなそうした会話をしてくれない。

具体的な会話例を出す。

例えば「白川郷に泊まったことがある」と話した時。今までの友達なら「岐阜にあって、積雪が落ちるように合掌造りになってて、世界遺産で」みたいな前提知識の上で会話が始まっていたから、お互いにイメージを共有して話せていた。それに相手も関心を持って聞いてくれていたし、そういうタイプの人に囲まれていたから話がしやすかった。それが今だと「なんか学校で聞いたことあるね」くらいの認識しかされていないから、話が進まないし向こうも面白くなさそうで盛り上がらない。

雑談だけではない。今の研修では毎朝順番でプレゼンをする。内容はその人の自由なので色んなジャンルの話を聞くことが出来るので毎朝ちょっとした楽しみにしている。ある日はミドリムシの鞭毛について、ある日は自動プログラミング技術について、ある日は嘘をつくことの心理学的知見、など本当に日替わりで知らないことを聞ける。だから、スピーチの後の質問時間では毎回挙手して質問している。しかし、同じように挙手する人は驚くほど少ない。決まった顔ぶれが3,4人挙げているだけだ。手を挙げない同期に言わせれば「むしろなんで聞いてるの?笑」……いや面白いからだけど…。

 

はじめのうちはなんとなく「会話の感覚が今までと違うな」程度の間隔だった。その違和感がwikipedia的会話にあることになんとなく気が付き、それを大学の友人にこぼしたところ「そういう話題になるのはオタクの会話だけだよ」と言われた。それを踏まえた上で考えたことを今回書き留めているわけで、ここ二回の記事で書いた同期に対する愚痴的なものでは一切ない。ただ、俺は同期が大学で研究した内容を語ってくれたら喜んで聞くし、なんならお互いに卒論プレゼンでもしてみたい。そこまではさすがにありえないにせよ、大学でなにを勉強したのかの会話はするものだと思っていたのでそれが悲しい。

ただ周りに恵まれていただけと言われればそうかもしれないが、たまにはそういう会話をしたい。そんな悲しみに包まれながら、適応していくことを学んでいる。